雜感
最近、想像力がなくなつてゐるやうに感ずる。勉強に勤しんでゐるためだらうか。勉強の方は、エドマンド・バークを中心に、ヒューム、コーク、チェスタトンなどの保守思想の古典をひたすら讀み進めて行つてゐる。しかし最終的にはこれらの思想を皇室擁護の思想に歸一させて行きたいと考へてゐるので、私の專門は「天皇論」と云ふのが最も相應しいだらうと思はれる。
また、合間を見つけて、三島由紀夫全集と『文藝文化』と鴎外全集とを讀んでゐるが、最近はいたく進みが遲い。
この頃は、三島に對する見方もやうやう變はつて來た。思ふに、僕らは、三島の悲しみを見つめなければならぬ。しかし、それでゐて、三島の眞似をしようとしてはいけないのだ。言はゞ三島は、近代日本の「墓標」なのである。僕らはその墓標に手を合はせながら、三島とは異なれる道を行かねばならぬ。『鏡子の家』を讀んでさう確信した。
私は、畏れ多くも森田必勝氏の選択に違和感を禁じ得ぬ。三島は死ぬのは自分一人で十分だと思つてゐたやうだし、盾の會の隊員にも「生きろ」と言つてゐたやうである。そして、隊員は言はれたとほりみな生きる道を選らんだが、森田氏だけが、死を急いだ。私は森田氏に同情もしよう、あるいはその勇氣に感服もしよう、しかしそれでも、森田氏は生きなければならなかつたと思ふ。
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