元首と主權

天皇は日本國の元首であり、また元首であつた。これは疑ひやうのない事實である。
 しかし、現代人は何故か「元首」といふ言葉を「專制君主」の同義語だと思ひ込んでゐるため、いよいよ話が厄介になつてくる。
 元首といふのは、國家の代表といふ程度の意味であり、何も主權(無制限の權力)の保持者といふ意味ではない。天皇は、元首ではあるが、主權の保持者ではない。この事をよく理解しなければならぬ。

 天皇を元首として戴くことを明記してゐる大日本帝國憲法(1889)には、「主權」なる言葉が一切あらはれないが、これは、「主權」なる概念が抑も立憲主義の原則に抵觸する概念であるといふことを、起草者の井上毅が看破してゐたことに拠つてゐる。
 主權といふものは、すなはち無制限の權力のことであり、對して、立憲主義といふのは、憲法によつて權力を制限する原理のことである。敢て言ふならば、憲法(法)に主權を置く原理とも言へようか。主權は法にある。そして主權といふものは、その本質から考へて、複數の場所に存在することのできないものである。無制限の權力は、無制限であるがゆゑに、唯一つでなければならぬ。であるならば、君主主權も、國民主權も、みな悉く虚妄の觀念であると言はねばなるまい。

 

笹塚透の手記

備忘録。所詮。

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